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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

生活文化考3 「お盆」にみる日本人の死生観

 先週は郷里で「お盆」を過ごされた方も多いでしょう。
 日本人の習慣的行事である「お盆」とは、祖先の霊魂を迎えて祀り、「盆」のひと時をともに過ごし、「あの世」へ送る営みです。このような恒例の行事を重ねることによって、祖先への感謝と今を生きる人たちの安心を人情でつないでいく営みです。

 「お盆」をめぐるこのような宗教的感情は、仏教圏を国際的に比較検討したとき、特殊日本的な性格のものであることが明らかにされています。(五来重(ごらい・しげる)『日本人の死生観』角川選書1994、阿満利麿(あま・としまろ)『仏教と日本人』ちくま新書2007等)
 宗教学者である阿満氏によれば、「仏教は、必ずしも霊魂を認める宗教ではない」から、仏教渡来以前の日本における民族宗教(自然宗教)が営んでいた魂祭(正月と7月)と、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)の習合したものが、私たちになじみのある「日本のお盆」だそうです。

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 つまり、祖先の霊魂がお盆のたびに「あの世」から「この世」に訪れて、また帰っていくという死生観は日本独特のもので、仏教本来のものではなく、日本の民族宗教に由来するものだということです。「死」を指して「他界する」という言葉を用いますが、「他界」すなわち「あの世」に逝っても、ヌケガラ(身体)とは別にタマシイは生きていて、「この世」に定期的にやってくるというお話になります。

 ここには、日本の民族宗教にみられるムラとムラの境界を「道祖神」によって画した習慣が土台にあるようです。すなわち、「あの世」と「この世」は決定的に隔絶したものではなく、「日常の暮らしと地続き」の、「ある一線から向こうが『あの世』と意識されてきた」というのが、日本人の死生観の原型をなしているらしい(阿満氏の所説による)。

 さて、この日本人の死生観は、高齢者の自殺と深く関連している場合があるのではないでしょうか。
 わが国の高齢者の自殺について詳しい梶川義人氏(高齢者虐待防止センター)から、次のようなお話を伺いました。それは、一人暮らしの高齢者の自殺ケースに中には、「正装している方」がおられ、「入水自殺においても正装している場合がある」とのことでした。
 自殺の際に「正装する」というのは、「この世」を去り「あの世」でご先祖のタマシイに迎えてもらうに「失礼があってはならない」という意味ではないかとの解釈が成り立ちます。

 高齢者の自殺における「正装」と日本人の死生観のすべてを論じることは、私の能力と守備範囲をはるかに超えるテーマです。それでも、私たちが夏の行事としてなじんできた「お盆」に示される死生観と高齢者の自殺の様がどこかでつながっているのではないかという仮説は、読者の皆さんにも一度考えて戴ければと願っているところです。

 日本では、自殺者数の多さが近年大きな社会問題になっています。秋田県で高齢者の自殺が最悪だったことを受けて、国からの積極的な支援を含む地域全体での取り組みが進められ、成果をあげてきたと言われています。しかし、わが国の青年をめぐる自殺には、「練炭自殺」や「硫化水素自殺」のような新しい現象がみられ、「この世」から「あの世」へ消え入るように、連続的に逝ってしまう特徴が続いてはいないのかと気になって仕方がありません。自殺者数の増減には問題の社会性にそくした対策が必要ですが、その対策の中に、日本人の死生観における光と影を踏まえた内容が盛り込まれるべきではないかと考えるのです。

 「練炭自殺」についてある人は、「苦しまない自殺方法を考えているに過ぎない」と言い切ります。しかし、世界の三大宗教であるイスラム教・キリスト教・仏教の教義や死生観のいずれにおいても、「自殺」をいささかたりとも正当化する論理はないため、日本人の死生観がどこかに介在しているのではないのか、たとえば「練炭自殺」のような方法は、欧米にはみられない現象ではないかと憶測するところです(八方調べてはいますが、未だ不明です)。
 死生観の問題は、何も自殺だけにかかわるものではありません。「死」という境目をどのように捉えるかは、「生」のあり方を照らし返すからです。たとえば、高齢期に向かう健康や「介護予防サービス」に対する受け止め方は、自らの「死」と残りの「生」をどのように願っているかによって大きく相違するのではないかと思います。


コメント


 ブログ拝見させていただきました。大変興味のあるテーマだったのでコメントしたいと思います。 
 私は毎年の恒例行事であるお盆は、日本人にとってはいたってあたりまえの事だと思っていたので、それに対して何も疑問を抱くことはありませんでした。
 でも確かに、あの世とこの世は繋がっていて祖先の魂が帰ってきてお盆をいっしょに過ごすというのは、客観的に考えてみると実に面白い。
 私は沖縄県の出身なのですが、沖縄では「あの世のお金」というものがあり、それを仏壇の前で燃やして祖先の方に仕送りをする、という風習があります。これは沖縄独特の風習らしいです。
 ですが、仕送りというなんとも現実味のあることを祖先の方に対してしているだろうと、日本人の「死」に対する死生観をまじまじと感じました。
 この死生観が高齢者の自殺と関連している、という仮説はすごく面白いと思いました。自殺する人が必ずしもそうだとは思いませんが、心の深い奥底にはこの死生観があることは確かだろうなと思います。
 私はやはり高齢者が自殺してしまうのはすごく悲しいことだと思います。やはり寿命を真っ当してこそ安らかに天国に行ける気がするので、自ら命を断ち切るようなことは決してしてないけないことではないでしょうか。


投稿者: SHI-SA | 2008年11月25日 17:18

 あの世とこの世はつながっているとある寺の住職さんに聞いたことがあります。経を唱えることがその人へ呼びかけていることになり、経を唱える度にその人は近くに居てくれるのだと。
 お盆には、私の町では鐘楼流しが川で行なわれており、私も欠かさずに参加しています。川へ行ってみると、老若男女問わず多くの人が来ており、お盆が浸透していることが伺えます。
 高齢者の自殺については、私もニュースでよく聞きます。今まで長年苦労して働いて、やっと穏やかな時間を過ごすことができる矢先の自殺、そのような思いを抱えて自殺をする方はどんな思いで亡くなっていくのか考えると胸が締め付けられます。
 自殺をする方の理由としては、経済的な問題に加え、介護を必要としたときに「家族に頼らなければならない」「迷惑をかけるから」という罪悪感から自殺をしてしまう方もいるということでした。
 家族に遠慮するという考え方も日本人独特のものであるように感じます。この遠慮が先祖への申し訳ないという思いを生み、正装をして亡くなっているのではないかとも思いました。
 自殺に追い込まれる前に、誰かが気づいてあげることができなかったのでしょうか、誰かに相談することができなかったのでしょうか。
 このようなことを考えるたびに、地域の重要性を感じずにはいられません。地域住民のネットワークが張り巡らされていれば自殺を防ぐこともできるし、何よりも問題を抱える人の不安の解消に向かうことができるのではないでしょうか。
 そのためにも、地域の民生委員が中心となって取り組んでいくことが必要なのではないかと思います。


投稿者: くまちゃん | 2008年11月26日 16:11

 日本人は独特の死生観をもっていると思います。「あの世」と「この世」という言葉があるように、どこか「死」を身近に感じてしまっているのではないでしょうか。お盆で帰って来る時のために、あの世でご先祖様に会った時に失礼のないように、という意味で死に化粧を施し、死装束を着させるのでしょうが、それは映画「おくりびと」が作られたように、日本人にはそのような感覚が昔から深くこびりついているように思います。
 このところ今の子どもはゲームの感覚で人殺しをするなどと言われていますが、若者がそのような間違った考えを持っているのと同様に高齢者の自殺の裏にはちょっと「あの世」に行ってくる。といった感覚があるのではないでしょうか。そして今日の若者の殺人問題にも日本人独特の死生観が大きく影響していると思います。


投稿者: スナフキン | 2009年07月10日 01:13

 2年前の祖母の死をもちまして、私の祖父母全員が亡くなりました。当然辛さや寂しさはあります。ただ、死というものは自然の摂理であり、誰しもその現実に直面する日は訪れるというのもまた事実です。日本人には独特の宗教観、死生観があるとのことですが、私もまったくその通りだと感じます。
 お盆という日本特有の習慣行事によって、また再び亡き人に出会えるという感覚は確かに「感謝」と「安心」を与えてくれるものだと思います。そうでなくとも墓前で手を合わせ、亡き人に(心の中で)話しかけるといった行為も、よく考えるとどこか不思議ですが、あの世とこの世に住む人を繋ぐためひとつの手段であり、そこには何か大きな意味があるように思います。
 また、そのような死生観と自殺というものに何かしらの関連性があることも確かに事実だと思いますし、それは高齢者の正装や遺書というものが代表的なものだと思います。さらに、最近では未成年者の脳死や移植に対する議論も増え、「死」というものがその状況や人間関係によって様々な見方が出来るということが一段と顕著になってきています。
 そのため、それらを踏まえて個人としてその現実にしっかりと向き合い、考察を深めていくことが重要だと思うし、そのために日本伝統の習慣や考え方をもう一度認識することも必要なのではないかと感じます。


投稿者: TTC | 2011年01月20日 14:39

私自身、お盆を行うことがないのでこの時期は常にテレビなどでお盆の風景を見るだけでした。その地域ごと、家庭ごとにお盆の風習があり、地域によっては先祖の墓前の前でシートを広げお弁当を食べ、まるで行楽のような雰囲気のお盆を行う所もありました。去年、親戚が2人亡くなりました。1人は老死、1人は病死でした。結局忙しさのため、その2人の通夜などに向かうことができませんでしたが、そのせいかどうも2人の死に向き合えていないような気がします。亡くなったという実感がないのです。お盆という慣習は人の死に向き合うことだと思います。最近の若い人々はそういったことから遠ざかり、人の死について実感することが少なくなってきたのではないでしょうか。そのため若者による殺人事件が起きたり、自殺の増加といった現実があるのではないでしょうか。私自身も人の死から遠ざかっている1人です。小説やドラマ、人の死は悲しくけれどどこか美しく描かれている気がします。実際に身近な人の死に直面しなければ、気持ちを理解することには至らないのだと思います。


投稿者: 栗 | 2012年05月14日 13:16

生と死は全ての人が通る道であり、また一度は考えたことのあることであると思います。
今回の記事の題の中にある「日本人の生死観」とあるが、全ての日本人が記事の通りではないということを初めにコメントしておきたいです。(多くの日本人の方は、記事の内容に当てはまると思いますが。)
ニュースで取り上げられる自殺の原因はいじめであることが多いと思います。しかし、私の考えでは最終的に自殺への原因になった事柄がなんであろうと、根本的な原因が他にあると思います。その一つだと考えられるのは、家族のあり方です。帰る場所、癒される場所がハッキリあるのとないのでは、心の変化も大きく異なってくると考えられます。家族は、多少の違いあると思いますが、近所の人にも置き換えることができると思います。今の社会は家族との時間より周りの人との付き合いが多くなりがちだと思います。近所の人と同様、置き換えは可能だと思いますが、今の移動が容易な社会に置いては、やはり「家族」という括りが一番強固であり関係を維持しやすいと考えられます。
自殺減少への対策は、記事の「日本人の生死観」とともに、家族のあり方を考えて行く必要があると思います。


投稿者: にぎり | 2012年07月18日 16:44

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
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発行:中央法規
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