秋葉原の事件から1 事件をとらえる姿勢
6月8日(日)、秋葉原の歩行者天国で「通り魔殺人事件」が起きました。この後、17日(火)に「連続幼女殺人事件」の宮崎勉の死刑が執行され、19日(木)には、警察庁が昨年1年間の自殺者に関する統計を発表し、10年連続で自殺者が3万人を超え、30歳代と高齢者が過去最多であることが報じられています。23日(月)には、JR大阪駅で起きた「通り魔傷害事件」の容疑者逮捕の報道が続きました。
相次ぐこのような報道に接すると、「加害者-被害者」の枠をはるかに超えて、現在の日本の社会が「壊れている」という実感を抱くのは私だけではないでしょう。そこで、これらの事実から何を私たちは受け止めればいいのかが問われるように思います。
秋葉原の事件を取り上げて考えましょう。
この種の事件が起きると、犯人の生い立ちや家族の問題が、当事者とその周辺に対する執拗な「取材」によって、「これでもか」と思われるほど犯人の個人情報を暴き立てて報道されます。今回も例外ではなく、「有名進学校」に至る軌跡とそこでの挫折、家庭教育と親の問題、そして犯人の雇用形態である「人材派遣の実態」の問題がクローズアップされました。これに符丁を合わせるように、新聞やテレビの報道に登場する「有識者」のコメントは、2つの焦点をもつ傾向にあったように思います。
その一つは、本人の生い立ちに由来する何らかの「精神病理」「人格的な歪み」(肥大化した自尊心、自己愛への固着)がネット社会を通じて拡大されたことを指摘するもの。もう一つは、今や格差社会のシンボルともいうべき「日雇い派遣」労働者の困難を指摘するものです。前者は精神科医と心理学者が、後者は経済学者と弁護士が、それぞれの「コメンテーター」として多く登場していたと思います。
これらの「コメント」は、事件に対するアセスメントが「個人」と「社会」の2極に置かれた、単純極まりない構成であることが分かります。つまり、「犯人が悪い」か「社会が悪いか」程度のアセスメントであって、報道機関の分析能力はこの程度でしかないのでしょうか。
しかし、過熱気味の「教育家族」の中で成長を余儀なくされた人、「有名進学校」で挫折経験のある人、職業生活の上で困難に直面している人などは、今日、何も珍しいことではありません。また、これらの人たちがネット社会に参入し、そこで自尊心を保持しようと試みたり、あるいはその時に、プライドを肥大化させたり傷つけられたりすることも、日常不断に生じている出来事に過ぎません。
秋葉原で犠牲になった方々の冥福を祈って「献花台」に訪れる人たちの中に、一方では、犠牲者の冥福を祈り、他方では、犯人と近似する境遇や境地から訪れる人たちが大勢いることも、一部で報道されていました。仮に、今回の事件の犯人とは明らかに異なる境遇・境地の人であっても、多くの人間は心のどこかに何かの「闇」を抱えているのもまた普通のことだといえるでしょう。
このようにみてくると、これらのありふれた社会現象だけを通して、惨忍な「殺人事件」を説明することはできません。ここで採用される常套手段は、犯人の特定の「性格」と「環境」の問題を詳細に暴き煮詰め、「このような生い立ち」によって「このように歪められた性格」の犯人だからこそ、「殺人事件」まで引き起こしてしまったのだという文脈で総括することです。このようにして、あたかも事件の「原因」を突き止めたとするかのような報道とコメントの傾向的態度が目立つのではないでしょうか。報道された事実と犯人の負うべき責任の重さをすべて受け止めた上で、なお私には、大きな違和感が残ります。
このような方向の理解では、事件を生み出した犯人の「特異性」だけを浮き彫りにし、犯人逮捕と刑の執行が行われさえすれば、多くの人が「一件落着」とばかりに胸を撫で下ろすことにしか帰結しません。犯人を「極悪人」に仕立て上げることによって安心感を得ようとする、安易な心の運びはないのでしょうか。
私が唯一納得できる方向性をもった報道に、先日接することができました。それは、NHKが6月20日(金)に放送した「追跡・秋葉原通り魔事件」です。まだご覧になっていない方は、再放送の機会を逃さず、ぜひご覧になることをおすすめします。











コメント
先生お久しぶりです。初めて書き書きしますが、いつも拝見しています。
私も報道にはよく疑問を感じます。今回の秋葉原の事件のような犯罪の特集に限らず、お昼のワイドショー等で発信される情報というのはどこか上辺だけの薄っぺらなものに感じています。
先生が仰るように、異質な事件ほどその犯罪者の生い立ちや性格、生活環境をこれでもかというほど各メディアが取り上げ、その人物の「特異性」を主張します。そして、それを事件の原因に練り込み、それに関する報道が終わり、いつの間にか風化されていっているような気がします。それが、今の報道の流行なのでしょうか。
私自身が仕事をする上で癖付けていることがあります。その合言葉ではないですが、一言でいうと「現原対変」です。何か修復しなければならない事象に当たったとき、その「現状」を把握し、「原因」をあらゆる角度から推測し、前向きで建設的な「対策」を練り、良い「変化」を予測し求めるといった考えです。私はこれをマスメディアにも求めています。
今日の一連の報道は、目に見える現状と、薄っぺらい情報による一面からの原因の発信で終わっています。それでは何も現状を捉えたとも言えず、もちろん変えることはできず、何も解決されたとは言えないのではないでしょうか。
そんなことを偉そうに言っている私ですが、遅刻こそはしませんが、基本、定時ぎりぎり出社です。その現状は理解・把握していますが、なかなか直りません。早く出社するといいことは間違いなくありますが、早起きする対策を考えない私も各報道と同じかもしれません。
それはともかく、先生一押しのNHKの報道が気になります。
初めてコメントさせていただきます。
この事件もそうですが、最近の凶悪犯罪に対する報道の姿勢というものに、私はいつも違和感を感じます。
加害者の身辺を執拗に「取材」し、あたかもこれが事実であり、そして、加害者は凶行に至ったのである、というような報道の仕方は本当に事件を真っ向からとらえようとしているのか、という気になって仕方ありません。
極端な話、「動機」というものは本人以外にわかりようがなく、それを社会のせいだ、ネット社会の発展によるゆがみだど、ただの側面にすぎないことをおおっぴらに報道する、マスメディアに求められる報道とはこのような紛糾だけで終わるものではないと思っています。
この事件から、どんな問題点が浮き彫りになるのか、またそれを今後どういった風に改善していくべきなのか。将来につなげていく、報道というものを、今後マスメディアには期待したいものです。
そして、私たち情報を受け取る側も、ただ情報を受け取るだけではなく、その報道からどんな教訓をうけ、変化していけるかということが大事だと思います。
情報はただの情報であり、それ以上の意味はありません。だからこそ、送り手は偏った情報を流さず、また受けては情報をただ享受するだけでなく、自分で考えることが大事なのだと思います。
初めてコメント致します。
無差別殺傷事件―いつものように家でくつろいでいた私は、テレビから流れてきたこの信じられないニュースに言葉を失いました。その後連日あらゆる報道番組でこの事件の特集が組まれ、次々と明らかになっていく容疑者の素性。しかし、私もそれらの報道内容に疑問を感ぜずにはいられませんでした。
人間は自分が解せない事柄を目の当たりにしたとき、その事柄に自分の納得できるような理屈をくっつけて、あたかもその事柄全てを理解したかのようなつもりになることがあります。
今回の事件の場合も、容疑者の生い立ち、家族関係、ネット社会の闇などの諸原因を、この「無差別殺人」という理解し難いものにラベルのように手当たり次第貼り付けて、無理矢理に理解しようとしているように感じました。そうやって理解した(つもりになった)途端、また事件の報道が止んだ途端、私たちの中でもうその事件は「過去の出来事」となってしまうのです。
事件が起こった背景について詳しく調査をすることはもちろん必要ですが、犯人本人にばかり事件の原因を求めようとすると、先生のおっしゃる通り犯人の「特異性」を浮き彫りにするだけで、根本的な解決には至らないと思います。
このような事件が完全になくなることはないのかもしれませんが、少しでもその発生を防ぐために、私たちはもっと大きな視野を持つ必要があるのではないかと感じました。
初めてコメントさせていただきます。
秋葉原事件だけではなく、すべての事件に関して言えることですが、マスコミ・視聴者ともに犯人捜し、事件の裏情報(犯人の人格、今日の社会)に躍起になっているということです。
確かに視聴者が気になる視点だと思います。このような報道をすることで今問題となっている社会現状が見えてきますが、今後の事件の防止にはあまり効果がないのではないかと私は考えます。
確かに「個人」「社会」の2つのアセスメントから報道することによって家庭教育の見直し、今日の社会を見直すきっかけにはなると思います。
しかし、報道すべきことは事件の概要等だけでよく、執拗な犯人個人、関係者への取材(ネット難民への取材も含む)はあまり必要ではないと私は考えます。視聴率をあげるための策であって、逆に犯罪の起爆剤、関係者のストレスにつながるのではないでしょうか。
それよりも今後このような事件を防ぐにはどうすればいいか考えなくてはいけないと思います。就職支援策、受験戦争の緩和等を視聴者とともに考えてみる。また、国に相談窓口の増設・利用者拡大策を提案してみる。このような報道がこれからは必要ではないかと考えます。
この秋葉原の事件が過ぎて、一時してから模倣犯が続出していたことが何度もメディアで取り上げられていました。
私が住んでいる福岡県でもそんな事件を予期させる模倣犯が現れ、私はその予期された日は外出しないようにと何度も母に念を押されていました。結局模倣犯は現れず、模倣犯を装った誰かのいたずらであったということで解決したようです。
本当に最近は悪質な事件ばかりで、いつ自分がそんな事件に巻き込まれるのだろうかと不安を抱えながら生活しなければならない有様です。どこに恐怖は隠れているのか分からない状態なので、とにかく自分を守るのは自分しかいないのだろうと改めて感じています。
一つの事件が犯人の死刑をもって終わったとしても、また同じような事件は必ず繰り返し起こります。誰が悪くて、何をどう変えていくべきなのかは正直私には分かりません。社会が悪いという人がいれば、教育や生い立ちに問題があるという人もいます。しかし私は、人を変えることができるのはやり人だと思います。
パソコンなどのネット社会によって、人が人と触れ合う機会がものすごく減っているのだと感じます。それによって心を閉ざして、自分の世界だけを作り上げてしまう人間はたくさんいると思います。こんな寂しい社会からどうにか抜け出したいものです。
初めてコメントさせていただきます。
私はこの秋葉原での事件の報道を聞いたとき、こんな恐ろしい事を1人の人間が出来てしまう事にびっくりしました。
しかし、報道によって加害者の過去や現在の状況を知り、加害者が特異な人物であるとは感じませんでした。
これだけインターネットが普及した世の中では、誰もがネット社会で生きている一員です。
また、格差が広がる社会で日雇い・派遣も珍しいことではありません。
そして、挫折したことのない人はいないはずです。私も、大学受験で挫折した1人です。
これらを考えると、犯人は決して特異な人物ではなく、私たちと同じ世界で同じように生活しており、誰もが犯人になり得る可能性があるという事です。犯人だけが特異な人物として捉えられることは、世の中が抱えている問題を見過ごすことになり、非常に危険なことだと感じました。
事件直後、けが人を助けるわけでもなく写メを撮る人の姿も多く映し出されていましたが、犯人がした事と同じくらい残酷な行為だと思いました。
しかし、これが現在の日本の現実なのかも知れません。
誰もが抱える孤独さ・寂しさ、どこにもぶつけようのない思いがこのような事件に繋がったのかも知れません。
個人で生きる現在からみんなで1つの社会を生きる時代へ!!
もっともっと人に温かい社会になることを願います。
初めてブログを拝見、コメントさせていただきます。
私が最初にこの事件を知ったのは、あるコミュニティサイトのニュースからでした。事が事だけに、とても衝撃を受けたのを覚えています。帰ってテレビをつけてみると、どの局もこの話題でもちきりでした。ある局では、中学か高校の時のアルバムまで持ち出してきて、いわゆる「オタク」の傾向が見られた、と取り上げてもいました。そしてどこもそうでしたが、それらが原因だから早急に制度の改善をということも言ってました。
しかし、おっしゃっているように、それでは無数の人間が殺人者予備軍になってしまいます。あるテレビでは、小中学生の在宅中にしていることの平均時間数調査みたいなことをしていましたが、ゲームやネットが100分以上を占めていました。これでは、秋葉原のようなことを小中学生がしてしまうということにもつながることになります。
このような問題について語るには、全面を見ないといけないと思います。ある側面だけに注目し、それについて語るのは簡単ですがそれでは今日のような偏った報道になるし、問題の解決方法も、ネット規制などの簡単なものになりかねないように思います。
しかし、ネット利用の低年齢化は無視できません。人間関係が希薄になりつつあるのではないかと思えます。どこか不安、不満を吐き出せるゆとりある場を作る必要があるのではないかとおもいます。
初めてコメントします。
私はこのニュースが連日テレビなどのメディアを賑わせ、さまざまな憶測を飛び交わせていた時、犯人に関係のあるものをすべて悪者扱いして、なんとか理解しがたいこの事件に独自の理由をつけようとしているマスコミの報道の仕方に気分が悪くなり、ニュースを見なくなりました。
犯人も被害者も関係なく、事件に関わった人について調べ上げ、被害者の葬式にまでカメラを持ち込み、犯人の人生を他の報道よりもより詳しく報道し、こじ付け的な犯行理由を無責任に挙げつらねていく姿は、事件を楽しんでいるようにしか見えませんでした。
自分たちが憶測した犯人の心情を、さも真実であるかのように報道し、犯行理由やきっかけとして「教育」や「オタク文化」を攻撃し否定するような発言を繰り返すのは、洗脳にも似ていると思います。
今回の秋葉原での事件では、何らかの絶対的な悪がなくてはいけないという安定を求める精神がさまざまなところで働き、本来批判されるべきではない一般の人にまで批判が及んでいたように感じました。
初めてコメントさせていただきます。
私も最近のニュースの報道を見て、どこか違和感を感じていました。
特に最近では秋葉原の事件に、私は衝撃を受け、記憶に強く残っています。確かにこの事件はとても凶悪なもので、犯人の犯した罪はとても許されるものではないと思います。
でも、どの報道でも、犯人は歪んでいる、こんなことできるなんて普通の神経じゃない、異常だ、こんなことがおこる社会になって恐ろしい、といったような内容しか見られず、私の納得のいかない報道ばかりでした。
事件を表面上でしか捉えてないような気がします。犯人は異常だ、ではなく、どうして犯人は異常な精神状態になってしまったのか、犯人の本当の思いを、もっと深く掘り下げて考えてほしいと思います。そして、彼をそのような状況まで追い込んだ周りの環境や社会も、同時に見直して考える必要があると思います。
確かに、犯人は悪いです。でも彼を犯罪者にしてしまったのは、彼の思いを理解しようとする人がいない周りの環境や社会の責任でもあり、悪いのは犯人一人ではないと思います。
とても個人的な思いを書いてしまい、先生の記事のコメントになっているか微妙なところですみません。私もそのNHKの報道を見てみたかったです。
ブログ拝見しました。僕も、このブログで宗澤さんがテレビや新聞などのメディアに対して感じたことと同じようなことを思っていました。
僕は、最近のメディアは情報力がありすぎる、と常々感じていました。今回の秋葉原の事件でも犯人を徹底的に調べ上げ、事件にあまり関係ないような犯人の情報も公開していました。確かにそのような情報は視聴率もとれ、メディアにはプラスかもしれないけれど、他にもっと重要なことがあるんじゃないかなと思います。
犯人の過去を調べるよりも、これからこのような事件が起きないようにするにはどうすればいいか、ということの方がよっぽど重要なはずです。
もしメディアが本気になれば、この世界のほとんどの人の過去や情報があっという間に調べられてしまうのではないかと思うと、とても恐くなります。これからはメディアが持つ力をもっと他の方向に使ってくれることに期待したいです。
初めてコメントさせて頂きます。
この事件が起きたのは1年以上前のことですが、私には衝撃的であったので今でも鮮明に覚えています。
この事件についてマスコミは、あたかも容疑者が「異常者」であるかのような報道をしていました。私だって軽い気持ちではありますが「ああ、ちょっとあいつ殺してやりてえな」とか、逆に「ああ、もう死にたいな」などと思う時があります。私の場合友達と遊んだり、ゲームをしたり、自慰行為をするなどをして、そういった鬱憤を晴らすはけ口があります。しかし彼の場合、そのようなはけ口がなく、自分の中に溜め込むことしかできなっかたのではないかと思います。
そしてようやく見つけたはけ口が、間違った方向に行ってしまったのではないのでしょうか。
もちろん彼が犯した罪は「悪」です。しかし、彼の人格が「悪」であるかのようなマスコミの報道に私は疑問を持たずにはいられません。
こんばんは。
何度かメディアの報道については問題視される事がありますが、行き過ぎた情報の量、取材のやり方については、やはり報道が一般人に興味深い内容であり、少しでも多くの人に見てもらうことを目的にした「競争」として行なわれている現状が理由として考えられると私は思います。
凶悪な事件が起こった、との第一報に、直接関係の無い人間が思うのは「誰がそんな事をしたのか」「どう育ったらそんなことができる人間になるのか」などといった思いであると考えられます。その事実を知り、「なるほど、それじゃ歪むのも仕方ない。問題はそんな環境をつくった社会にある!」と思う人もいれば、「犯人はどうかしてる。許せない!」と犯人に対する重い刑罰を望むものもいます。
事件をどう捉えるにしても、事件とその容疑者のことを詳しく知る必要があり、そのために報道はあるのでしょう。事件をを経験していない人間が事件を考え、犯人の責任の重大性について議論するには、無知ではならない。このような考えの上で、報道の過熱は起こっているのではないかと考えます。
また、今回の事件では、はっきりと犯人が社会への恨みを口にしていて、犯人の中にあるのはまさに自分と社会であり、その間の特定の個人というものは存在していなかったようにさえ感じられます。だからこそ原因は何故か、という問題に大して「社会」か「犯人」かという論議になってしまうのでしょう。
しかし宗澤先生の言うとおり、これはもっと身近な人間の彼に対する関心、愛情が彼に届いていたのなら起こり得なかった事件だといえると思います。もちろん彼の身内の人々に事件の責任があるとは思っていません。しかしこのような親密圏への愛情の希薄化は現代の日本を象徴する問題ではないかと思われます。
パソコンさえあれば、クリック一つでインターネット上の不特定多数、匿名の、顔の見えない人間との「交流」が出来てしまう世の中で、自分にとって都合のいい人間とだけ向き合い、問題を無視することも容易くできてしまう。そこにあるのは人間との交流ではなく、何か別の作られた存在との「交流」だけです。
もちろんインターネットによって社会は便利な事だらけです。今こうして先生のブログを読めるのもインターネットのおかげです。しかし、現代の家族、地域との関わりの希薄化については、インターネットが理由の一つになっていることは確かだと私は思います。
私は一人の人間の暴走によって多くの人の命が奪われたこの事件を、問題提起であるとは思いたくありません。まるでこの事件の発生は有意義であると言っているような気がしてならないからです。それでも、周りの情報全てを糧に、社会をよくしていきたいと考える人間がいる事は間違った事ではないと思います。社会から完全に孤立してしまう人々をまた社会へと迎える事ができるのは他人ではなく、家族であり、地域です。
これから日本の社会はますます本当の人間同士のつながりを忘れ、一人一人が自分だけの力で立たなくてはならない社会になるのではないかと感じますが、それでも、日本がもっとあたたかい「住まい」になる事を心から願います。
長くなってしまいましたが、以上とさせていただきます。
はじめてコメントさせていただきます。
私も事件の報道の仕方に疑問を覚えることがあります。たしかにどのような理由で犯人が事件を起こしてしまったのかについては、多くの人が関心をもっており、報道する義務もあると思います。
かし、テレビなどの取材は行き過ぎている部分があると考えます。犯人の生い立ちなどを事細かに説明し、「昔はいい子だったのに」や、「昔からどこかおかしかった」など周囲の人の発言まで報道します。いい子だったかなどは、周囲の人それぞれ感じ方は違うと思います。
ある一人の人の意見をあたかもみんなそう思っていると視聴者に感じさせる報道の仕方はおかしいと思います。なかには、刑務所での生活を説明したり、更生しようとしているひとまで取り上げることがあります。このようなことはわたしは必要ないと思います。
犯罪を犯した人はもちろん悪い。しかし、そうさせてしまった社会も悪いと思います。だれか一人でも話を聞いてくれる人がいたらこんな犯罪は起きなかったのではと思うことがあります。今はインターネットが普及していて、他者と顔を合わせなくても簡単に生活できる時代です。それはとても便利である反面、孤独な人をたくさんつくってしまうものでもあると思います。
ひとりで悩みや葛藤を抱えきれなくなったとき、その人の中で何かが爆発してしまうのだと思います。犯罪は加害者だけではなくみんなにも責任があるということを自覚していかなければいけないと思います。
初めてコメントさせていただきます。
この事件の公判が始まって、また再びメディアでの報道合戦が復活したかのように感じます。
今回の報道過熱で私が何に一番驚いたのかというと、それは現代社会に住む私たちの記憶力の乏しさです。
確かにこの信じられないほど残虐な事件後から今まで、同じくらい、あるいはそれ以上に悲惨な事件も発生しました。しかし、この事件以前にもそれは言えたことであり、またこの報道がリアルタイムで流れていたときに至っては、思いのたけはどうであれ、多くの人がこんな残酷な事件を忘れるはずがないと考えていたのではないでしょうか。
かくいう私もその一人だったことを今でも鮮明に覚えています。
何らかの理由もなしに無差別で人を殺せる神経が理解できない、と憤っていたはずでした。
けれど、そのときの憤りはあっという間にかすみ、気づけばついこの間に公判の情報がニュースで流れるまで私はこの事件のことをすっかり忘れてしまっていたのです。
マスコミはその仕事柄仕方ないのかもしれないのですが、いつだって新しい事件を、より視聴率の取れる事件を求め、下世話な部分にまで報道の自由と称して土足で立ち入りすぎているように私は最近感じます。
そして、散々荒らしまわった挙句、その後のフォローはなしですぐに目新しいものに目をやるのです。報道する側もされる側も、誰も事件の最終的結末までを追いかけようとすることはありません。
その証拠に、私たちは刑の執行より何より、それがその事件に関係あるのかどうか怪しい情報をワイドショーで手に入れるだけで加害者や事件の概要、はたまたその本質までも見抜いた気になり満足して安堵します。そして興味を無くしてすぐ次に移るのです。
確かに次々と報道される常軌を逸した様々な事件は恐ろしいしその加害者の思考も、行動も、恐ろしい。加害者の周りに存在した「社会」も恐ろしい。
しかし、私は実際のところ一番怖いのは、口ではその事件を否定しながらもその数分後、あるいは数日後には自分には特に関係ないと事件自体をあっさり忘れてしまうような、暴くだけ暴いて気がすんだらそっぽを向いてしまうような、そんな私たち自身のすぐ近くにある「社会」なのではないだろうかと最近ふと考えてしまいます。
今の日本に疑問をいだかずにはいられません。
毎日のように異常な殺人事件が起こり、政治家の不正・最近では相撲会での賭博事件などが起こる日本。
また、あることないこと報道するマスコミ。
こんな世の中だったら、いっそ海外に移住したいなーと思ったりしますが、現実にはできないことを考えると憂鬱になったり。
特に殺人事件にはいろいろな要因があるとは思いますが、いざ自分の子どもができるとすると心配でなりません。
政治家も信用できないし、高い志をもって選挙を行っても結局は不正をしてしまう環境にある人が多いように思う。
デンマークのように税金は高いが、福祉がしっかりしている国へ行きたい。
初めてコメントさせていただきます。
この事件に限らず、近頃の殺人事件などの凶悪な事件の報道は、加害者の「特異性」を際立たせることしかしていないと感じます。
先生も仰っているように、加害者と同じような境遇の人はいくらでもいて、また私自身にも共通点はたくさんあると思います。つまり、誰でも加害者になり得るということです。それなのに、マスコミの加害者の「特異性」ばかり主張する報道によって、「あの人は私とまったく違う、普通じゃない」などと加害者を「特別な人」と認識させてしまい、自分自身の中に多分にある「加害者となる可能性」に気付くことができなくなっている、と思います。
視聴率をとるために、何でもしているととれるマスコミの報道に疑問を感じます。
また、報道を受け取る側の私たちにも問題はあると思います。
世の中にはいい人と悪い人の2種類の人がいる、ということを私は幼いころは信じていましたが、実際はそんなに単純なものではありません。誰もが加害者になり得る、そんな社会に私たちは生きています。
それを認めてしまうと、自分という存在の不安定さを思い知らされ精神的に辛く、日々の生活を安心して送ることができないから、マスコミのそんな報道がまかり通ってしまっているのではないでしょうか。
このままでは似たような残酷な事件がますます増えていってしまうのではないかと思いました。
先生がおっしゃっているように、人は誰でも心の中に多かれ少なかれ「闇」を抱えていると私も思います。
私は、初めてこの秋葉原の事件を聞いたとき、自分の中の「闇」も大きくなって爆発してしまうと、こういう風になってしまうのかなと正直少し思いました。しかし、私には辛い時や悲しい時に支えてくれるたくさんの友達がいて、その友達たちが「闇」を小さくしてくれている気がします。
犯人は、職を失ったりして「現実の社会では、自分は相手にされなくなった」と言っていることを当時のニュースで聞きました。だから、犯人は「ネットの世界に踏み込んだ。しかし、ネットの世界でも無視されるようになり犯行に及んだ」というのも当時のニュースで聞きました。犯人には、誰か支えてくれる人が必要だったのではないかと私は思います。
そして、今の日本が抱える社会問題も、この事件を通してもっと考えなければならないと思うことができました。人はやはり、人に支えられて生きているのだと思います。この世界に住む人々が、そのことを再認識して、誰もが人を支え、人に支えられる社会になればいいなと思いました。
先生が紹介してくださっていた、NHKの番組もぜひ見てみたいと思いました。
改めて被害者の方へご冥福をお祈りします。
このような大きな事件が起こるとメディアは必ず犯人の過去、人間関係、精神状態、環境などを報道し、専門家が分析し、様々な意見を述べます。ここで、一番大切なことは、「何が悪かったのか」を突き止め終りにするのではなく、「このような悲惨な事件を繰り返さないための対策」を考えていくべきだと思います。このような悲惨な事件、裏を返せば、それは犯人のSOSともとれるのではないでしょうか?
例えば去年の大阪2児放置死の犯人である、被害者の母、下村容疑者は仕事も育児もすべて一人で抱え込んでしまった末の事件だったらしい。こんな場合は(もし、近くに子ども預けられる施設があったら…)などと思ってします。事実、下村容疑者のような立場にいる方はたくさん存在しているでしょう。そのような方々も悲鳴を上げているかもしれません。
そんなことを思うと犯人も被害者なんだ…と思ってしまいます。犯人のやったことは許せません。しかし、こうなる前に、救いの手を差し伸べられる世の中になってほしいです。
参考文献を明記するのを忘れていました。
参考文献は現代社会と福祉2(社会福祉言論2)
《児童虐待(CHALD ABUSE)》
正義とは何か、問う授業がここ最近話題になっています。
私はこのような事件が起こるたびに犯人への強い憎悪感と、同時に日本の報道機関への憤りを抱かざるを得ません。
犯人側に正義があるわけないですが、正義面をして無責任な発言を続けるコメンテーターや、厚かましい取材を続ける報道機関にも正義は感じられません。
かつて17歳の少年たちが事件をたびたびに起こした時期がありました。その時からこの報道機関の報道体制は全く変わっていないように感じます。
犯人の人物像を執拗に取り上げ、ある意味でありふれた特徴をさも殺人犯にしかない特徴のように扱う。そして執拗に犯人の「可哀そうな生い立ち」を取り上げる。
いったい何を報道したいのか、私にはまったくわかりません。
我々視聴者が犯人の素性に興味を持ちやすいという事実があるため仕方ないのかもしれませんが、はたしてそれは私たちにとって本当に有益な情報なのでしょうか。
「秋葉原の事件から1・2」を読ませていただきました。
人はみんな「落ち込む」こともあれば「幸せ」な気持ちになることもあると思います。
私は日々「何か良いことがあると、そのあといやなことがくる」と思って生活しています。息苦しいことではありますが、事実だから仕方ないのです。
そんな人の「普通」な気持ちを、なぜメディアはあれだけ大々的に取り上げるのでしょうか。私は「殺す」までの気持ちはないですが、かっとなって叫びたいと思う気持ちは何度もあります。でも私は家族や地域、友人たちによって日々助けられています。
犯行は犯人個人の問題だけではなく、周りの問題です。絶対に。
初めてコメントさせていただきます。
心の中の「闇」という言葉には、私は心を打たれました。人間誰しも闇の部分も光の部分もあります。私はいつもそう思っていました。しかし、誰も純粋な光の部分だけ持っているというのは間違いで、光あるところには影の部分、つまり闇があるのですよね?
その闇の部分が光を飲み込んでしまうと秋葉原の事件のように凄惨な事件が起きてしまうのではないでしょうか。
報道が一方的に加害者を叩く、まるで加害者の人権を無視しているかのごとく。確かに歪んでいるようにうつるかもしれませんが、それだけバッシングを受けるようなことをしている事実は変わりません。
報道は、というよりも私たちは、被害者の冥福を祈りつつ、どのようにすれば同様の事件がおきなくなるのか考えないことには、被害者は報われないと思います。
環境が個人を、個人が環境を変える。私たちは、そんなところにも気をつけなくてはならない、ひどい「社会」にいることを改めて痛感しました。
犯人のすべてを「ありふれたこと」と捉えるのならばこの事件の背景とはいったいなんでしょうか。犯人は「犯行しない動機」を持ち合わせていなかったのではないでしょうか。「犯行しない動機」は自分にとってみれば「家族」「逮捕」「他者への同情」などでしょう。それは各人別々のものを持ち合わせているでしょうから、犯人にとっての「犯行しない動機」とは何であって、なぜ持ち合わせていなかったかは定かではありません。
私は、自分の報道機関に対する自らの態度を顧みると、放送されているものは正しいこととみなし、そのまま受け入れる傾向にあることに気づきます。「公に開けているものは正しい」という思い込みと、それに伴う妙な安心感からのものでしょうか。なぜ「公に開けているものは正しい」と思い込むのでしょうか。それはたぶん、法律のように正しいとされるものが公に適用された結果、逆に、公に共有されるものは正しいという認識が生み出され、自分はその考えが癖になってしまっているのではないかと思います。私のように、報道を鵜呑みにしてしまいがちな人はたくさんいると思います。また報道機関も、正しいと思っているものを報道しているに違いありません。「報道の問題点やその改善策を自分は分かっている」というあかしに批判をくりひろげてもなにか生まれるとは思えません。報道に罪があるとしたら、その罪を負うのは報道の問題点やその改善策を知りつつも、批判に終始している人もまた同じなのではないでしょうか。報道に問題があるとしたら、その改善のために行動する人が現れることを望みます。
このブログを拝見して、一つの事件を個人に全ての原因があると考えるのではなく、もっと深い視点で捉えるべきだと改めて思いました。
この事件に限ったことではなく、ネット社会をより真剣に考える必要があると思います。これは僕の完全な主観ですが、ネットやゲームに関わる時間が多い友人ほど、少しのことで頭に血が上る傾向にあるように感じます。人間社会は常に人と人とが直接かかわって形成されていますが、ネットやゲームの世界では相手が直接見えません。そういった状況ではやはり自分本位の行動が増えてしまうのではないでしょうか。
これからの子供はより低い年齢からネットと関わることになると思うので、教育の現場での対応に期待したいです。
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